今月のおすすめ記事  2006年12月号

市民ジャーナリズムは、
混乱と炎上を越えて
立ち上がるか

オーマイニュース日本版船出の裏側

佐々木俊尚

ささき・としなお 1961年、兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。88年、毎日新聞社入社。99年アスキーに移籍。月刊アスキー編集部などを経て2003年2月に退社し、フリージャーナリスト。著書に『グーグル Google 既存のビジネスを破壊する』など。

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 ネットを使った“市民ジャーナリズム”の舞台として注目を集めた、韓国発の「オーマイニュース」が、8月28日から日本でもスタートした。しかし、その船出は、韓国で語られるサクセスストーリーとはかけ離れたものだった。ジャーナリストであり、同サイトの非常勤編集委員でもある著者が、その舞台裏で交わされた議論と、「日本での市民ジャーナリズム」の可能性を考える。
オーマイニュース日本版 http://www.ohmynews.co.jp/

 市民記者の間から、こんな声が出ている」
 オーマイニュース編集部の次長はそう言って、市民記者からのさまざまな意見を列挙した。
 「誹謗中傷がひどすぎる。これでは議論にならない」「『この記事にひと言』欄を読むのが怖い。もう記事を書きたくない」「このような誹謗中傷を書き込まれるなら、市民記者を辞めたい」
 そして次長は続けた。
 「『ひと言』欄に記事への批判が書かれると、こんなふうに記事を書けなくなってしまう市民記者が少なからずいる。発言できる市民記者をできるだけ増やすためには、何らかの形で『ひと言』欄の運用ルールを変える必要があると思うんだけど」
 オーマイニュースのウェブサイト上には、市民記者が書いた一日数十もの記事が掲載されている。社会、政治、スポーツなどにジャンル分けされ、テーマも北朝鮮外交や教育問題からサッカー観戦記までさまざまだ。それらの記事に対しては、オーマイニュースのサイトに「オピニオン会員」として登録した人なら誰でも意見を述べることができる。その意見を書く場所が、記事ごとに用意されている「この記事にひと言」欄だ。記事に賛同する意見もあれば、厳しい批判、罵倒も少なくない。理性的な指摘もあれば、感情的な反発もある。  次長は、オーマイニュース上やメール、オピニオン会員の参加するミーティングなどで「ひと言」欄についての意見を求め、その意見を踏まえて新たなルールを打ち出すつもりだ、と話した。
 私は「会員たちは、オーマイ上の議論は有効に行われているし、ルールを変える必要はないと反発すると思う」と言った。「もし会員の意見が編集部の意見と合致しなかった場合は、どうするつもりなの?」
 次長は答えた。
 「編集部としてはルールを変えたい。しかしその目的に合致するように会員全員を満足させることは難しいし、全部の意見をまとめるわけにはいかないと思う」
 私は「それではネットメディアとしての透明性は確保できないのでは?」とさらに聞いた。
 次長はしばらく考えて、かみ締めるようにこう答えたのだった。
 「反対があるのなら、きちんと議論して、説得していくしかないと思う」
 インターネットのメディアは、編集者や記者、読者がすべて同じフラットな地平に置かれる。編集部が運用ルールやシステムを勝手に変えてしまえば、記者や読者ら参加者からは猛反発を食らう。もちろんそうした利用者からの反発はリアルな世界にもよく起きることだが、ネットメディアではそれらの反発がすべて可視化され、現前のものとなってしまう。利用者からの反発をこっそり切り捨てるわけにはいかないのだ。

 私はインターネットの世界で起きていることを主な取材対象にしているフリーのジャーナリストで、インターネットを使った市民参加型メディアの動向にも強い関心を抱いている。
 その中でも特に注目していたのが、韓国のオーマイニュースだった。
 オーマイニュースは2000年2月、市民が自由に参加し、記事を投稿できるニュースサイトとしてソウルで設立された。中心となったのは、月刊誌記者だった呉連鎬氏である。韓国では4万人の市民記者が登録し、一日150~200本の記事が投稿されている。そのシステムを専従の編集者約25人が支え、市民記者の記事をチェックしたり、市民記者からのスクープがあれば追加取材を行うなどの活動を行っている。
 オーマイニュースが最初に注目を集めたのは、02年6月のFIFAワールドカップである。オーマイニュース上で場所と時間を決めて韓国チームへの応援が呼びかけられ、その書き込みに応じて参加した人がふくれあがり、やがて市街地を埋める400万人もの大応援を実現させた。
 さらに同年12月の韓国大統領選では、オーマイニュースを中心とするインターネットの世論が盧武鉉候補を当選させる原動力となった。「ノサモ」と呼ばれる盧候補の応援団がネット上で結成され、インターネット掲示板やメールを使った選挙運動を繰り広げたのだ。韓国ではネットと市民(シティズン)の造語であるネティズンという言葉がよく使われているが、大統領選での盧武鉉氏の勝利は、「ネティズンの勝利である」と語られた。この大統領選では、オーマイニュースの閲覧数は以前の10倍にも増え、世論調査でも「投票行動にはネットの影響が一番大きかった」という回答が最多を占める結果となったのである。
 これをきっかけに、政府やマスメディアもインターネットの影響を無視できなくなり、公式発表はまずインターネット上でリリースし、その反応を見てから記者会見を開くといったスタイルが定着するようになった。また従来はネットの報道を無視していた有力紙も「インターネットの情報によると」というクレジットをつけ、ネットで報じられたニュースを二次情報として流すようになったのである。
 オーマイニュースは、世界で唯一成功しているインターネットの市民メディアであるとも言われている。日本でもJANJANや日刊ベリタ、ライブドアPJ(パブリックジャーナリスト)ニュースなどいくつかメディアが立ち上げられているが、広範囲な参加を獲得しているとは言い難い。
 そのオーマイニュースの日本進出が明らかにされたのは、今春のことである。2月22日、ソフトバンクとの提携によってオーマイニュース・インターナショナル株式会社を設立し、オーマイニュース日本語版を夏に創刊する計画が発表されたのだ。
 私が最初にオーマイニュースの呉連鎬代表と会ったのは、今年春のことだった。新聞社の旧知のソウル特派員を通じて、呉代表からコンタクトがあったのだ。
日韓で異なる利用者の思想的スタンス
 3月24日。
 東京・汐留にあるパークホテル東京のラウンジで、私は呉代表と会った。彼は単刀直入に、
 「日本でオーマイニュースを成功させるのには、どうすればいいと思うか?」
 と聞いた。私は日本のネットメディアをめぐる現状について説明し、いくつかの論点を挙げてオーマイニュースを日本に輸入することの意味と困難さについて話した。
 最大のハードルは、メディアが持つべき「立ち位置」の問題である。日本では団塊の世代を中心とする層が、どちらかといえば左派寄りのスタンスを持つのに対し、インターネットの主たる利用者層となっている団塊ジュニア以下の若者たちは、ネオリベラル的、右派寄りの思想を持っている人が実に多い。つまりは「新=右」「旧=左」というねじれた構造になっている。この新旧の世代対立はかなり根深く、お互いの拠って立つ共同基盤は存在しないのではないかと思えるほどだ。そしてこうした構造の下では、若者たちは「市民ジャーナリズム」という左派的な言葉に対して何の幻想も抱いていない。
 つまりは「市民が参加するジャーナリズム」というテーゼ自体、団塊世代的な左派臭があり、ネットの世界にはなかなか受け入れられないのではないかと思ったのだ。
 韓国では、そうではなかった。
 韓国では、1960年代から長く続いた軍事政権の負の遺産として、新聞やテレビなどのマスメディアに対する報道規制がきわめて厳しく行われている。たとえば、のちの映画「シルミド」で知られるようになった71年の北派工作部隊反乱はいっさい報じられなかったし、80年の光州事件もそうだった。93~94年の北朝鮮核危機も同様である。こうした報道規制への鬱屈した不満が、インターネットと結びつき、その不満がオーマイニュースという噴火口から一気に外に噴き出したのである。
 さらにその背景として、97年の通貨危機もあった。通貨危機によって古い世代が政治や経済の支配層から一掃され、「386世代」が社会の中枢となった。386世代は90年代当時、30歳代で80年代に学生運動に参加し、60年代生まれだった人たちで、社会民主主義的な左派の思想基盤を持つ。そして韓国は通貨危機以降の経済低迷から脱却するため、金大中政権のもとで国を挙げてIT戦略を推し進めた。そのようにして「新世代」「左派」「IT」の三つが幸せな出合いを実現した結果、オーマイニュースの成功があったのである。
 だが日本では、そうした出合いは起きていない。左右や新旧などの二つの対立があり、どちらか一方に加担することによってやすやすと時流に乗れる――というような社会状況ではなくなっているのだ。日本の言論空間は左右に分解されるのではなく、左右と新旧、あるいは別のさまざまな区分けによってもカテゴライズされたうえで、ある種の碁盤の目のようなマトリックスによって細分化される状況にさえなっているように思える。
 そうした状況では、オーマイニュース日本版が、かつて韓国で展開したように、「反権力」「反戦平和」といったキャッチフレーズを一方的に打ち出しているだけでは、広範に市民記者を集めることはできないどころか、極端に左に偏った人たちだけを呼び寄せることになりかねない――私は自分の危惧を、呉代表にそう語った。徹底的に中立のメディアとして「場」を提供していくのか、それとも何らかの意思を持ったメディアとして先鋭的なジャーナリズムを実現していくのかを切り分けなければならないと話し、「ちょっと言いすぎか」と自分で思いながらも、次のようなことまで呉代表にアドバイスしたのだった。
 「もし前者を選ぶのだったら、新聞社を定年退職したような人は編集者には選ばない方がいい。もっと柔軟でネットメディアの感性を持っている若い人を編集長や編集者に」

 インターネットのメディアというのは、「場」であると私は考えている。
 従来のテレビや新聞などのマスメディアは、「プロセス(工程)」が最も重要だった。取材記者がネタを探し、関係者を当たって取材し、データを集める。その間に内部で起きた記者、編集者同士の意見対立や議論についてはすべて内部で処理し、仮にその議論の過程でさまざまな興味深い意見や反論が出ていたとしても、それらはいっさい外部に表出させなかった。徹底的に内部でネタを揉み、原稿やビデオをブラッシュアップして、最終的な完成品を「これがわれわれメディアの提供する記事です」と外部の読者や視聴者に対して提供してきたのである。
 これはブラックボックスであるけれども、しかし精鋭のプロフェッショナル集団が政府や企業の腐敗を暴くような調査報道では、必須のプロセスだ。そしてかつてはこのブラックボックスに対して人々は信頼感を感じ、新聞やテレビを支えてきたのである。
 しかしインターネットで市民参加型のメディアを実現しようとすれば、こうしたプロセス型のジャーナリズムはあり得ない。読者はイコール市民記者であり、市民記者はイコール読者である。つまりはオーマイニュースという大きな土俵、場のようなものがあり、そこに人々は記事を投げ込んだり、あるいは玉石混交の中から自分に必要な記事を拾い上げて読む、といった行為を行うのだ。
 その「場」に集まってくるのは、善男善女だけではない。投げ込まれる記事も、素晴らしい論考からひどい中傷、罵詈雑言まで玉石混交のごった煮だ。混沌とその圏域の中で、さまざまな意見や情報が渦巻いているような場こそが、インターネットメディアの本質なのである。
 場を運営する編集部の側がすべきことは、この「場」をクリアにして、善男善女だけが集まるようにすることではない。
 善良な市民が寄せてきた善良な記事を、編集部が取捨選択して掲載していく――というような古いプロセスを取るのであれば、それは昔からある読者投稿型の雑誌や新聞の読者投稿欄と何ら変わりはない。
 「水清ければ魚住まず」という言葉があるが、ノイズのない場所、石のないところからは素晴らしい「玉」は生まれないのである。つまり、市民参加型メディアでは、玉石混交を前提にしつつ、母集団をできるだけ大きくするということが大切なのだ。
的中した危惧もてあそばれた編集部
 私は3月以降、呉代表と何度も会い、対話を重ねた。私は繰り返し上記のようなことを話し、それらのハードルを乗り越えることの難しさについても、彼に何度も話した。とはいえ、これまで日本には存在しなかった新しいネットメディアの基盤にはかなりの可能性があるとも思ったし、オーマイニュースは日本のネット空間に何らかの影響を与える可能性もあると考えた。そこで創刊直前、オーマイニュースに非常勤の編集委員という肩書でかかわることになったのである。
 この時期、編集長には著名ジャーナリストの鳥越俊太郎氏が就任した。新聞や雑誌などマスコミでも好意的に紹介され、メディアに興味を持っている人たちからは大きな注目を集めた。オーマイニュースは、好スタートを切ったのである。
 しかし蓋を開けてみると、私の危惧は残念なことにかなりの部分が当たってしまった。
 オーマイニュースは創刊前の7月末、「開店準備中ブログ」を立ち上げて編集スタッフの紹介や市民記者の記事などを先行して掲載し始めたのだが、編集部が選択した記事は、かなり思想的な偏りが強かった。市民運動家の記事が多く掲載され、ネットの世界ではオーマイニュースは「左寄りの人たちの集まり」と見られるようになった。これは危険な兆候で、そう烙印を押されてしまえば、普通のネット利用者は来なくなってしまう可能性がある。
 創刊直後、驚くべき事件も起きた。市民記者に編集部がもてあそばれてしまったのである。ある市民記者が「インターネット上ではびこる浅はかなナショナリズム」という極度に左寄りの内容の記事を投稿し、これが編集部によってオーマイニュース上に掲載された。冷静な批判だけでなく、ひどい中傷、罵詈雑言がコメントとして多数書き込まれ““炎上”した。ところが、直後に記者本人が「あれは釣り(悪戯で誘い水を出す行為=2ちゃんねる用語)で書いた記事でした」と2ちゃんねる上で暴露し、記事に掲載判断をくだした編集部を笑いものにしたのだった。これは編集部にとっては、手痛い失態だった。
 編集部サイドの問題もあった。
 オーマイニュース編集部には新聞記者出身のスタッフが多く、編集作業も新聞や雑誌と同じようなプロセスで行われた。市民記者から記事の投稿を受け付けると、それをスタッフが読んでチェックし、書き直しを求めたり、あるいは内容を読みやすくするために若干書き直したりする。最終的に完成品となった原稿だけがサイトに掲載され、その途中のプロセスは外部には一切公開されない。
 私はこうした手法はネットの世界にはそぐわないと考え、編集部のさまざまな問題についてオープンに議論を喚起しようと考えた。そこで創刊直前、「開店準備中ブログ」に「オーマイニュースへの疑問」という長い記事を投稿し、上記のようなことを書いた。
 しかしこの私のやり方については、編集部内外から強い非難の声が上がった。スタッフからは「なぜ編集部の内側の問題をあんなふうに書いてしまうのか」「冷笑的ではないか」と批判され、また外部からも「公然と文句を言う暇があったら、編集スタッフと対話して改善したらどうなんだ」と言われた。
 しかし先にも書いたように、ネットのメディアは「場」である。その場がすべての人々にとって中立かどうかを見極めるためには、場の運営に対して徹底的な透明性が求められる。だから内部の意見対立はブラックボックス化すべきではないし、編集部内部の対立をすべて丸め込んでしまって外部に完成品だけを提供するというのでは、それは編集部が外部の市民をシャットアウトし、編集部と外部との間に「壁」を作ってしまっているということになるのではないか。
 だが、こうした考え方は、新聞社的な手法でメディアを運営してきた人にはなかなか理解されず、受け入れてもらえない。

 市民記者や編集スタッフの記事の書き方そのものにも、問題があった。
 ネットの世界では、2ちゃんねるであろうとブログであろうと、情報源(ソース)をきっちりと提示したうえで、論理(ロジック)付けを行っていない記事は嫌われる。なぜなら、ネットの世界では書かれた文字だけがすべてであり、それ以外には判断する材料がない。  さらに言えば、高度経済成長もバブル経済も終焉を迎え、総中流社会はいまや崩壊してしまっている。人々の拠って立つ共通の基盤が失われつつあるこの世界では、正義という言葉ひとつをとっても、それがどのような定義で語られているのかを厳しく問い詰められる。アメリカのブッシュ大統領の語る正義と、イスラム圏に住む人たちの語る正義、共産中国の人たちが語る正義は同じ用語であっても、持っている意味合いは著しく異なっている。
 だがそうしたソースもロジックもすっ飛ばして、「とりあえず政権批判していれば受け入れられるだろう」という記事が、創刊当初のオーマイニュースには少なくなかった。
 たとえば「高校野球への報道姿勢を問う」という市民記者が書いた記事は、早実の斎藤投手への過熱報道が、なぜか小泉批判につなげられ、「小泉首相のワンフレーズポリティクスに伴い、報道も勝ち負けの二局論に傾く傾向を感じる」(原文ママ)と結ばれている。  私がこうした記事を批判すると、オーマイニュース内外から強い非難があった。たとえば、「市民記者が自身の生活実感に照らしたうえで、政権批判の記事を書いてきたのであればそれを批判するのはおこがましいのではないか」といった非難である。
 しかし先に説明したように、読者となる人々の考え方がマトリックス化して分断されてしまっている状態では、「なぜ私がこの問題について怒りを覚えているのか」「なぜ私が感動したのか」「なぜ私はこれを批判するのか」という前提を、きちんと説明しなければならない。書き手と読み手がお互いの共通基盤を手探りしながらさぐりあて、それを確認しなければ安心して記事を読めないのだ。政権批判をするのであれば、なぜ早実の斎藤投手報道と小泉改革がつながっているのかを、きちんと説明してほしいと思うのだ。
 そうでない記事が多いから、「この記事にひと言」欄で激しく批判される。インターネットの世界の言論には容赦がないから、言葉も優しくない。だから市民記者の側には「『この記事にひと言』欄を読むのが怖い。もう記事を書きたくない」「このような誹謗中傷を書き込まれるなら、市民記者を辞めたい」といった反応が出てしまう。
ようやく気づきはじめたインターネットでの常識
 私はこの数カ月、批判されたり、あるいは個人的に非常に悔しく歯がゆい思いなどもしながら、ずっとオーマイニュースとかかわってきた。状況は、かなり改善されてきていると感じている。
 しかし市民記者の弱音に対しても、「ひと言」欄でオピニオン会員から以下のような反論がされている。
 「もう記者をやめたい……などという方がいるようですが、これは編集部の責任大ですね。『市民みんなが記者だ』というキャッチフレーズで記者を募集しながら、ネット内で実名で活動するリスクや危険性にほおかむりしてきたからです。いまや、ネットで実名で活動することは、誰でも見ることができる公開の履歴書を作るようなものです」(以下略)
 これに対して編集部スタッフは、実名でこう意見を述べている。
 「インターネットが普及してまだそれほど時間が経っていません。書いた記事が知らない人から批判にさらされることがありうる、という『インターネットでの常識』がまだ普及していないのではないでしょうか。だからといって、その覚悟がない人は書く資格がないというのは早計ではないかなぁと思います」
 どちらの意見にも、それぞれの理はあるように思う。だが編集部の側は、このインターネットという世界をどうとらえればよいのか、まだ悩み、苦しんでいるようにも思える。なぜ編集部が掲載判断を下した記事に対して批判が起きるのかがわからないし、そうした批判に慣れていないからだ。それは市民記者も同様で、批判にきちんと応え、みずからの意見を軌道修正させながらより良い記事を作っていこうとしている人がいる一方で、批判からひたすら逃げようとしている人もいる。
 しかしネットの世界は、閉鎖的な同人誌ではない。自分の書いた意見は世界に開放されており、人に批判されたりコメントされるのは、ごく当たり前のことなのだ。その批判の中には、真っ当な指摘もあれば、でたらめな事実誤認や罵声もある。
 それが常識であるということを知ることが、インターネットのリテラシーの第一歩なのである。
 その意味で、オーマイニュースはようやくそのインターネット上のメディアとしての第一歩を踏み出したという段階だ。
 創刊から2カ月を経て、編集部のスタッフたちにもネットメディアの難しさが徐々に理解されるようになった。ネット的な本質が、皮膚感覚でわかるようになってきたのである。だからこの原稿の冒頭に紹介した新聞記者出身の編集次長も、市民記者たちと「きちんと議論して、説得していく」と話したのだ。
 今後、このメディアがどうなっていくのか――市民参加型ジャーナリズムとして日本で成功するのか、それともあっけなく瓦解するのかはわからないが、しかしこれがひとつの壮大な実験であることは間違いないだろう。

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