『緑のペンの業績集』

『緑のペンの業績集』

小林司

Kobayashi Tsukasa 日本エスペラント学会顧問

 第92回世界エスペラント大会がこの夏(2007年8月)、パシフィコ横浜で開催された。前回、日本で世界大会が開かれたのは1965年だから42年ぶりのこととなる。初日の開会式では参加57カ国の代表がアルメニアからアルファベット順に挨拶をするのだが、挨拶はみなエスペラント語による。なにしろ57人次々に違う国の代表者が現われるのは壮観だし、それを仕切る世界エスペラント協会の役員の手際の良さにも感動してしまう。世界57カ国から1900人が横浜に集まった。「そんなに大勢が集まって一体何をするのだろうか」というのが友人たちのいつわりのない疑問だろう。そこで、私が経験したことの一部をありのままに記してみよう。あらかじめ大会登録をしてあるので、まずは受付で大会プログラムなど一式が入った白地に真っ赤なロゴマーク付き袋を受け取り、売り切れないうちにとさっそく大会特設のエスペラント書籍の売り場へ急行した。
 Josip Pleadin:“ORDENO de Verda Plumo”プレアディン編『緑のペンの業績集』(28 ×16・5センチ、272ページ)という上質紙のハード・カヴァーがおすすめと私に手渡された。編者のプレアディンは、クロアチアで出版社を経営する傍ら、クロアチア語からエスペラントへの翻訳書も多数あるという人だ。「何か掘り出し物はありませんか」という私の虫のいい質問に答えてくれたのは図書販売担当のボランティアでハンガリーから来た医者だった。
 早速本を手にとってみると、いわば「エスペラント作家人名事典」とでもいうべきものだった。これは今年の世界エスぺラント大会の書籍売り場での一場面だ。もちろん使われている言語はエスペラントただ一つだけだから、通訳なしで何の苦労もなしに通じるのがありがたい。
 この本には1091人のエスぺラント作家の略歴に448枚の顔写真がついている。日本からは、長谷川テル、出口王仁三郎、エロシェンコ(エスペラントの著作は主に日本滞在中に行なわれた)、林 健、磯部晶策,伊東幹治、伊東三郎、川崎直一、小西 岳、栗栖 継、黒田正幸、前田茂樹、宮本正男、森田健夫、村田慶之助、中村陽宇、世古口健、冨田 冨、岡 一太、小坂狷二、大里義澄、田畑喜作、竹下外来男、田中貞美、谷口 高、上山政夫、八木仁平、山田天風、が採用されているが、この人選には若干問題がある。外国での編集だから、不可能に近いが、秋田雨雀、岡本好次(最初の「エスペラント・日本語辞典」の編集者)、梶 弘和、などが登場してもよかったように思われる。それにしても、すごい本が世界的規模でできたものだ。日本人がこんなに大勢入っている外国発行の作家事典はほかにはないだろう。
 次に私が売り場で見つけたのは、V.Bleier編 “Ni Kantu!”(ともに歌おう!)で、58ページのしゃれた文庫本(75部印刷したうちの18冊目)である。これはハンガリーの労働歌集だ。外国でどんな歌が高唱されているのかを知っている日本人は少ないのではないか。“希望”“夜明け”など、ほとんどすべてのエスぺランティストが知っている歌の他に、“舟歌”など111の歌が収録されている。目次が、登場する歌の最初の単語のアルファベット順になっているのは気がきいている。しかし、残念なことに楽譜が印刷されていないので演奏したり、歌ったり出来ない。
 エスペラントは今から120年前、ロシア帝国占領下のポーランドのヴィヤウィストクという町に住む貧しい眼科医のザメンホフ(1859〜1917)が創案した国際共通語である。ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人が住むこの町で、言葉が通じないために人々が敵対しあう有様をみて、多民族間のコミュニケーション手段の必要性を痛感したからである。1887年に帝政ロシアの検閲を通過させて世に発表したもので、文法わずか16か条、ヨーロッパ語のエッセンスを抜き出して整理統合した、きわめて合理的で学びやすい言語で、現在全世界での使用者は100万人といわれている。
 こんなこともポーランドのテレビ・ディレクターでもあるエスペランティストのロマン・ドブジンスキとザメンホフの孫にあたるザレスキ・ザメンホフとの対談集(Roman Dobrzynski, L.C.Zaleski‐Zamenhof:“La Zamenhof‐Strato”)に詳しい。これを私たち日本のエスペランティスト67名は共同翻訳して出版した(『ザメンホフ通り』454ページ、2005年、原書房)。ワルシャワ・ゲットーから死体の山に隠れて脱出したというザレスキの体験、第二次世界大戦中のヒトラーによるユダヤ人への苛酷な弾圧、戦後の架橋の設計者としての活躍などが縦横に語られていて、興味がつきない内容だ。エスペラント語版から各国語への翻訳が世界各地で展開されていて、今年はそのスロヴェニア語訳とポルトガル語訳とをクロアチアのエスペランティストのスポメンカが持ってきてくれた。すでにクロアチア語、チェコ語、リトアニア語、ポーランド語でも翻訳されて出版されている。
 ついでながら、Boris Kolker:“Vojago en Esperanto‐Lando”(p.280) を日本のエスペランティスト58人の共訳によって1冊全部を邦訳して清水裕子がホームページに載せた。今回この訳者のうちの10人と編著者コルカーとが初めて一堂に会したのも忘れられない喜びだった。原書とホームページの邦訳とを対照すれば、翻訳力は飛躍的に高まるはずである。最近は辞書から学習教材までがネットにあるというなんとも便利な時代になった。
 世界エスペラント大会は、開催地によって異なるが、毎年世界各地で2000〜3000人が参加する。日本からも毎年200〜300人が海外での大会に出かけている。大会は世界エスペラント協会が主催していて、今年は日本エスペラント学会が中心となり、日本人エスペランティストのボランティア400人あまりがその大会を支えた。子連れの参加者の便宜と次代を担う子どものためにと託児室も用意されていた。
 大会の書店でエスペラントの本をひと山購入したあとは、依頼されていた「日本の国宝」というエスペラントによる講演を40点ほどのカラー写真をパソコン・プロジェクターで見せながら行なった。1000点以上もある国宝の絞り込みにはかなり苦労した。この中には鎌倉の大仏も含まれていて、大会のなかで用意されている遠足で後日、実物を見に行った外国人も多かったようだ。「わびとさび」などという難しい内容も日本の石庭とベルベデーレ宮殿の庭、茶室とシェーンブルン宮殿内部とを対比させて何とか理解してもらえたようだ。なんとも忙しい大会初日であった。
 並行してZAIMという建物では市民公開番組が多数用意されていて、大会初日の「谷川俊太郎とエスペラント詩人を囲む会」には230人もの参加者が集まり、大盛況だったそうだ。私の講演と時間帯が重なってしまって残念なことだった。
 海外の文化を自由に吸収したり、日本の文化を思いどおりに発信できるのは、青春を過ごした戦争中には考えられないことである。第二次世界大戦中、「敵性語の英語は明日から勉学中止」となった旧制中学生のとき、「世界への窓」を持ちたいとエスペラントを独学し始めたことを改めて幸せなことと思った。