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山形浩生のNot Yet
君主制に未来はあるか?
Against the Day by Thomas Pynchon, Penguin Press 2006
山形浩生
民主主義の世の中にあって、王様や皇帝や天皇の位置づけはとてもむずかしい。その愛憎半ばするような人気の一端も、そのいかにもあいまいなポジショニングにもあるのだろう。なぜ王様は王様なの? なぜ天皇は天皇なの? そう言われて、まともに答えられる人はいない。だってまともな答えってないんだもの。昔なら、戦乱の世を平定したとかいう実績があって、その実績(および各種神話的な正当化)をもとにした一族の統治能力への期待がある。それが、王様を王様たらしめているものだ(建前上は)。だけれど、いまの世界各地に残る王家や皇帝一族にはその意味での「実績」がなかなかない。王様がお飾りやシンボル以上の存在であるところはまれだ。君主が本当の意味で統治しているのは、ブータンやアラブ首長国連邦の首長たちくらいかな。
その中で、タイの王家というのはがんばっている。国内のタイレストランに行くだけでも、現在のラーマ九世王がいかに敬愛されているかは感じられるだろう。それは決してお人柄とかそんなものだけではない。政治的にも大きな存在感を持ち、また各種の慈善や貧困開発プロジェクトなどを通じ、国民ともかなりの直接的な接触を持って「治めている」王様だ。タイで数年ごとに風物詩のように繰り返されるクーデターもどきにおいても、最後は王様が出てきて沙汰を下す。法律や民主主義のお題目がどうあれ、実質的な意味での最終的な主権は明らかに王様にある。
この本は、そのラーマ九世ことプミポン・アドゥンヤデート王の伝記となる。そしてこの本でわかることは、ラーマ九世は単に世襲で玉座についただけの存在ではないということだ。ある意味でかれは、現在の地位を自ら勝ち取ったのであり、だからこそ現在のような力をかれは持ち得ている。
ぼくも知らなかったことだが、ラーマ九世は実はアメリカのボストン地域生まれなのだった。もともとかれの父は王位からはかなり遠く、ボストン留学時に結婚して誕生した兄弟の弟のほうがプミボンだ。折しも当時のシャム王国では、王の圧政に対して台頭してきた市民階級がクーデターを起こし、王様が亡命政府を興して云々……といった、きわめてきな臭い状況となっていた。各種駆け引きのなかで、王はかつての権限や財産をほとんどすべて失い、王室は完全に形骸化していた。
プミボン王子は、そんな状況とは比較的無縁のまま、自由なアメリカ生活を満喫し、ミュージシャンになろうとかレーサーになろうなどと夢見ていたのだけれど(そして自動車事故を起こしたりもしている)、なんだかんだでこの一家に玉座のお鉢がまわってきてしまった。そしてこれまた知らなかったことだが、まず玉座についたのは兄アーナンタなのだった。だが、アーナンタ王は在位わずか一カ月で謎の死をとげる。ピストル自殺なのか、あるいは暗殺かは、未だにわからない。かくてプミボン王子が一九四六年にタイの玉座につく。兄の死後、プミボン王は公式の場では一切笑わなくなったという。本書の題名もそこからきている。
その後のタイの歴史――そしてラーマ九世の歴史――は波乱に満ちたものだ(いまだにそうだ)。十回以上にわたるクーデターの試み。近代化と共産主義勢力、アメリカを筆頭とする勢力の横やり。一時は王の地位すら失いかけ、冷戦期には無力なお飾りとしてバカにされていた。だが王様は、まず失われた王室の財産や地位を少しずつ回復する。さらに各種の地方開発や貧困対策の開発プロジェクトの実施。なかには人工降雨技術を使って、王は雨を呼ぶ力があると無知な農民に思わせる、なんていうあざといのもあるけれど。そうやって信頼を勝ち得る一方で、各種勢力にうまく自分を利用させることで、常にキャスティングボートを握るような位置を確保。失敗や計算ミスもあった。でもそれを辛くも乗り越えた実績を経て、ラーマ九世は現在の地位を自ら築き上げてきたのだ。
ただ伝記としての本書は凡庸。波瀾万丈とはいえ、しょせんはタイのローカルな事情の中だけに終始し、これだけの素材を扱いつつ、いま一つ広がりがない。特に、他の王家との比較が少ない。引き合いに出されるのは、ほとんど国民や政治との接触がなく、完全なお飾りでしかない日本の天皇家くらいだ。
でも、ぼくはもっと適切な比較対象があると思うのだ。同じインドシナで、類似の勢力にさらされ、アメリカの援助と共産勢力と国の発展と王室維持というパズルに挑んだ別の王家。この欄の読者ならおわかりだろう。カンボジアのシアヌークだ。シアヌークが目指したのは、ある意味でまさにいまのタイ王家のような立場だった。各種反対勢力の仲裁者として、実質的に最高権力を目指す立場。だが自分が目立つことばかりを重視し、感情にまかせて手下の蛮行を自ら奨励し、奥の手として温存すべき絶対権力を気楽に行使しすぎて仲裁すべき勢力そのものをつぶしたクメールルージュの台頭を許し、国を壊滅させてしまった愚かな君主。玉座についてからはアメリカで満喫した自由を封印したプミボン王の節制とバランス感覚の一部でもシアヌークにあれば――本書にはなぜか、シアヌークもカンボジアも一度たりとも登場しないのだけれど、この二人を比べたとき、王様というものの意義とその危うさについて、人それぞれ思うところがあるはずだ。
そして本書の問題提起でもあるんだけれど、やはり王室の今後は問題になるだろう。最終的には反民主的な存在である王室、そして結局は既存の(決して腐敗していないとは言い難い)産軍権益との結びつきで成立している王室が、社会の成熟の中で今後どうたちまわるのか?
ある意味で世界でも有数の成功した王室たるタイ王室の抱える課題は、世界のその他の王室にとっても大きな問題として立ちはだかるのだ。この点の踏み込みは甘いのだけれど――それは読者が考えるべきこと、かな。この日本社会の課題としても。
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