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ウクライナの首都キエフから車で20分ほど行ったところにあるバビ・ヤールを訪れた。 1941年9月。ここで3万3千人のユダヤ人がナチスの占領軍に銃殺された。バビ・ヤールとはロシア語で「くぼ地」という意味だ。それは、その後のホロコースト(注1)の先駆けだった。 ずいぶんと前にワシントンのホロコースト博物館でバビ・ヤールの悲劇を知って以来、一度訪れたいと思っていた。 人々の苦しみと悲しみを社会主義リアリズムを刻ませ描いた巨大な彫像がそびえている。幼子を抱く母親、労働者、農民、セーラー服の軍人、さまざまなイメージが造形されている。 その一角以外は四方ともすべて陥没した谷間である。 そこに木々の枯れ葉が間断なく降り注いでいた。黄色や赤色や茶色の枯れ葉が絨毯のように敷かれ、その上にカラスが点々と黒い文様を描いていた。 若い女性が一人、彫像の前に立って、遠くを見つめている。 「ここは四季それぞれに美しいところなので、時々ぶらっと散歩に来るんです」 スヴィエタさんというその女性は、近くの国民経済大学の1年生だと言った。 彫像の前の記念碑の文字は、ロシア語とウクライナ語とヘブライ語である。 〈ここにおいてドイツ・ファシストがキエフ市民および戦争捕虜を10万人以上、射殺した〉 そう記されているのだと教わる。 犠牲者はあくまで「キエフ市民」であり「ユダヤ人」とは記されていない。 その後、郷土史家のイゴール・ソスナ氏に会う機会があった。 ソスナ氏が次のように解説してくれた。 「ソ連時代は長い間、この虐殺の犠牲者を悼む記念碑を建てることはできなかった。変わり始めたのは1960年代末の雪解けから。この碑の建立は76年だが、その流れを受けている。ただ、その際も犠牲者はユダヤ人ではなく『ソ連人』とされた。ソ連は、国民の性格から民族の要素をぬぐい去り『ソ連人』を前提にした。だからユダヤ人の民族的特性も捨象された」 「もう一つ、帝政ロシアからソ連時代へと継承された反ユダヤ主義の伝統。ロシアのそれはウクライナのそれよりさらに屈折し、沈殿していた」 「最後に、冷戦時代、アラブを同盟、友好国としたソ連とイスラエルの間の国際政治上、イデオロギー上の矛盾があった」 ウクライナとウクライナ人は、バビ・ヤールにどのようにかかわっているのか。 この時期、ウクライナという国はなかった。ウクライナ人だけがいた。ウクライナは、肥沃な黒土──世界の黒土の3割が集中している──ゆえに、ユーラシアの大国に収奪され続けた。ナチスはその黒土を貨車に積んでドイツに運んだ。 「ウクライナの民族主義者は、ソ連と戦うためにドイツの占領を許した。しかし、1941年から42年にかけてドイツはウクライナ人を虐殺し始めた。ロシア、ドイツともその占領は非人間的だったが、ドイツのほうがソ連よりはるかに非人間的だった」 「その中で、バビ・ヤールの悲劇も起こった。ユダヤ狩りにはウクライナ人も加担した。第2次世界大戦はウクライナに深刻な問題を投げかけている」 ウクライナは冷戦後の1991年、独立した。2004年のオレンジ革命(注2)で民主化が始まった。しかし、東と西の対立の亀裂が国の基を揺さぶっている。欧州に引かれる西とロシアになびく東との、言語、文化、歴史、価値観をめぐる深刻な葛藤、対立である。 ソスナ氏は、ポケットからウクライナの紙幣、フリヴニャを取り出した。それをカフェのテーブルの上に並べ、西と東それぞれの歴史評価に触れた。 1フリヴニャはキリスト教を国教にしたヴォロディーミル聖公。2フリヴニャはキエフの都市と文化の基礎をつくったヤロスラフ賢公。「2人とも中世人で別格。全ウクライナ人に尊敬されている」 5フリヴニャはボフダン・フメリニツキー(1595~1657)。コサック隊長出身。ポーランドのくびきからウクライナを解放、ウクライナはここに初めて自分たちの国家をつくり上げた。彼はロシアと保護条約を結んだ。だが、それがロシアのウクライナ併合につながった。国をつくった男が国を売った。評価は分かれるが、「東ウクライナでは最大の英雄」。 10フリヴニャは、軍人ヘトマン・マゼッパ(コサックの首領であるヘトマン在任1687~1709)。 18世紀初頭、ウクライナのコサックはロシアのピョートル大帝の「大北方戦争」(1700~21)に動員された。コサックの死傷率は50%から70%にも上った。マゼッパの反乱が始まった。北の雄、スウェーデンと組んでロシアに挑んだが、敗れた。これはウクライナがロシアから独立を図った最後の試みとなった。 「東では裏切り者扱い。西では愛国の英雄」 50フリヴニャは、ミハイロ・フルシェフスキー(1866~1934)。1918年、ウクライナ人民共和国の初代大統領、ウクライナ史全10巻をウクライナ語で著した偉大な歴史家であり民族主義運動の象徴的存在だった。しかし、政治力、外交力を欠いた。 「東は彼のことをそれほど好きではない。そもそも、東は1917年から1922年までの短命に終わったウクライナ人民共和国の存在そのものに疑問を抱いている」 詩人も3人登場する。 20フリヴニャがイワン・フランコ(1856~1916)。西ウクライナの詩人、ジャーナリスト、急進的政治活動家。ウクライナ社会主義運動の生みの親である。 200フリヴニャ。女流詩人のレシャ・ウクラインカ(1871~1913)。 8歳で最初の詩を、13歳で詩編を発表した。母親はロシア語教育を嫌い、家庭教師を雇い彼女にウクライナ語を教えた。ウクライナ語の詩集はロシア官憲によって出版禁止処分になったが、西ウクライナで出版され、キエフに密輸された。若くして結核を患い、外国暮らしが長かった。ロシア語、ポーランド語、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、英語をみなよくした。 そして、100フリヴニャが国民詩人、タラス・シェフチェンコ(1814~61)。 農奴のせがれとして生まれた。1840年、最初の詩集を出版。彼によりウクライナ語は高度な内容と複雑な感情を表現できる言語としての地位を確立したと言われている。 「この3人とも東西を問わず尊敬されているが、尊敬度は西のほうが強い」 (ウクライナの歴史については、黒川祐次著『物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国』=中公新書=に多くを教わった。ウクライナの地理と歴史を見事に織りなしたロマンスである) 注1 ナチス・ドイツにおいて、ユダヤ人やドイツ語圏のロマらに対して実行された組織的な絶滅計画。 注2 ウクライナ大統領選に端を発する抗議運動等の総称。オレンジをシンボルカラーにしたことから、同名で呼ばれる。 |
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