船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.797 [ 週刊朝日2006年8月4日号 ]

ミサイル危機の中、鴨緑江沿岸の中朝国境の町、丹東で考えたこと

 中国と北朝鮮を分かつ鴨緑江の河口にある丹東市の川沿いの中連ホテルにチェックインした。

 予約したいちばん上の12階の部屋の窓から、鴨緑江を眺めた。

 あいにく天気が悪く、向こう側、北朝鮮・新義州は煙っている。

 2本の橋が向こう岸へと伸びている。

 手前が鴨緑江断橋。その先、上流100メートルほどのところに架かっているのが中朝友誼橋である。

 まず、鴨緑江断橋の上を歩いた。橋は中国側の橋梁の上だけで、途切れている。

 中朝友誼橋は、向こう岸までつながっている。ただ、列車は単線で車も1車線だけだ。

 車がしずしずと渡っていく。

 土地の人に聞くと、ミサイル発射後、変化らしきものは何もないという。

 橋を通って渡る列車は1日10便ほど。北朝鮮への中国人観光客が増えている。

 2本の橋とも日本が朝鮮を植民地にした時代に架けた。いずれも、朝鮮戦争のとき、米軍の空爆で破壊された。そのうち中朝友誼橋だけが再建された。

 丹東市は、総人口240万。中国最大の辺境都市である。満州族が70万人以上いるが、朝鮮族も20万人ほど住んでいる。

 それに、北朝鮮から出稼ぎが2千人ほどいるという。

 夜、北朝鮮系経営の朝鮮料理屋に中国人の知人と行ったが、ここで働くウエートレスは全員、北朝鮮の女性である。

「いずれも思想が正しく、社会背景がしっかりした家庭出身です。寮から店に来るのも帰るのもすべて集団行動。夜、店を閉めた後、必ず反省会を開き、その日の行動をみんなで点検、評価しているといいます」と知人は教えてくれた。

 翌朝、抗米援朝紀念館を見学した。

 中に入ると、巨大な毛沢東と彭徳懐の銅像がそびえている。2人は談笑している。彭徳懐は義勇軍司令。朝鮮戦争はこの2人の指導よろしきを得て、戦い抜いたとのメッセージだ。

 パネルを展示した部屋に入る。

 朝鮮戦争が始まる前の朝鮮半島の地図の南北に「ソ連占領区」「米軍占領区」と記されている。

 南側の「米軍占領区」はともかく、北側を「ソ連占領区」と表記したのは最近のことに違いない。そういう認識も表現もかつては認められなかった。

 1948年9月9日。「朝鮮半島北部に金日成を内閣首相とする朝鮮民主主義人民共和国が成立」とある。ただ、それを祝う人々はスターリンの写真を掲げている。金日成の写真はない。

 1950年6月25日。「内戦勃発」と記されている。これも、新しい。ソ連崩壊後、朝鮮戦争当時の機密文書が公開され、金日成の仕掛けた戦争であることは明々白々となった。さすがに中国もそれを無視できない。かつてなら「米軍侵攻」と書かれたところだろう。

 1950年10月1日付の金日成の毛沢東あての手紙の原本も陳列されている。金日成は中国語をよくした。ペン字である。

「朝鮮を米軍の植民地化させ、米軍基地化させることを許してはならない」と述べ、中国人民解放軍の直接の出動を強く要請している。懇願調に近い。知人の話だと、北朝鮮側は中国がこの手紙を展示したことに反発したという。

 10月半ば。中国義勇軍が、丹東から2本の橋を渡って北朝鮮に入った。米軍は敗走し、ソウルは共産軍に再占領された。

 邱少雲が火だるまになっている絵もある。国連軍の火炎砲で、カムフラージュ用に頭にのせた枯れた草木が燃えたが、動くと敵に味方の所在地を知らせてしまうため、そのまま焼け死んだ。

「死んでもラッパを離しませんでした」の中国版である。知人は30代半ばだが、邱少雲のことは小学校時代、つまり1977~78年ごろ、教室で暗記させられたと言っていた。

 戦争宣伝ばかりの写真だが、いくつか見入った。

 雪の上のキャンプ地で寝ている中国義勇軍の兵士たち。寝顔にまだあどけなさが残る。

 彼らは零下30度の凍土の上で野営した。コートも靴もナパーム弾で焼かれ、布靴で歩かなければならない兵士もいた。次々と凍傷にかかり、倒れていった。

 ジャガイモを分かち合う兵士たち。毛沢東は「一山一水一草一木」という訓示を兵士に与えた。朝鮮人民のモノは、山も水も草も木も何も奪ってはならない。補給路を断たれた兵士たちにはわずかなジャガイモしか与えられなかった。ひもじいだろうに……そっと出す若い兵士の手に、私は胸が熱くなった。

 紀念館の外には、ミグ15などが展示されている。

 ソ連軍は、丹東をはじめ鴨緑江の中国側に集結し、ミグ15は米軍機3千機を撃墜した。朝鮮戦争は、人民戦争の勝利と喧伝されてきたが、ソ連の戦闘機の動員とソ連軍パイロットの参戦なしには完敗していただろう。

 しかし、紀念館のパネルにはその点についての記述はない。

 中国にとって、朝鮮戦争はあくまで40万人義勇軍の犠牲によって「勝利」した戦争でなければならないのである。戦争はいつも神話にくるまれて、語り継がれる。

 毛沢東と彭徳懐の「その後」についての記述もない。その後、毛は戦争の英雄となった彭を排撃した。スターリンが毛を牽制するため、毛と彭の関係を裂こうとしたことにも起因しただろう。文革時代、彭は8年間にわたり、260回も尋問を受け、迫害された。毛は彭とフルシチョフの関係を疑っていた。

 紀念館を後にして、丹東駅に向かう途中、この戦争は日本にとって〝特需〟であった以上に、中国にとって〝特需〟だったのではないかと思った。

 朝鮮戦争で米国と堂々と渡り合ったことで、中国はイデオロギー大国として登場することになった。

 毛沢東は、絶望に駆られ、停戦を求める金日成の悲鳴もものかは、もっと北の奥深く、国連軍を誘い込め、と号令をかけた。消耗戦、持久戦に持ち込み、米国を傷つける。朝鮮が焦土になってもそれは二の次だった。

 1953年2月、ドワイト・アイゼンハワー米新大統領は、一般教書の中で中国への核使用を示唆する発言を行った。

 毛沢東はそれを口実に、スターリンに核技術供与を要請、核科学者の銭三強(注)をモスクワに派遣した。スターリンはためらった。このジレンマがスターリンに戦争終結を決意させた最大の理由だったと言われる。

 毛沢東の核への執念は、1964年の核実験で実を結び、中国は戦略大国への道を踏み固めた。

 北朝鮮が中国の「戦略的資産」と言われるゆえんは、朝鮮戦争に起因するのである。


注 中国の原子物理学者。フランス留学中にキュリー夫妻の指導を受け、帰国後は原爆、水爆の開発にかかわった。