船橋洋一の世界ブリーフィング

船橋洋一顔写真

No.828 [ 週刊朝日2007年3月23日号 ]

『周恩来秘録』の著者、高文謙が語った
日中関係のあいまいさ

『周恩来秘録 党機密文書は語る』(上下巻・高文謙著、上村幸治訳・文藝春秋)が日本で刊行されたのを機に、著者の高文謙が来日した。

 高氏は、かつて中国共産党中央文献研究室で十数年にわたり勤務、周恩来伝記研究チームのまとめ役を務め、その際、大量の内部文書を読む機会を得た。天安門事件後、米国に行き、コロンビア大学東アジア研究所などで研究を続けている。

 中国共産党を率いた革命第一世代の中で「ただひとり周恩来のみが、毛沢東とすべてをともにし、一貫して失脚することなく、天寿を全うすることができた」。ダルマのように倒されても倒されても跳ね返る。「起き上がり小法師(不倒翁)」の異名を取ったゆえんである。

 この本を読みながら、中国の政治の苛烈さを改めて思う。外交とは内政の別名であるが、中国においては権力闘争の別名であること、そして外交において、彼が毛沢東とかくもむごい闘争を繰り広げなければならなかったこと、を知った。

 1972年のニクソン訪中と米中正常化もその闘争の一コマである。

 私の瞼には、ニクソンが大統領専用機、エアフォース・ワンのタラップを下り、周恩来と握手したシーンが焼き付いている。ニクソンは待ちきれないというように手を前に差し出した。周は、微笑を湛(たた)え、その場に立ったまま動かない。周はゆっくりと手を前に出した。

 もう一つ、歓迎宴でのニクソンと周恩来の乾杯。周はニクソンと乾杯するとき、わざわざ自分のグラスの縁をニクソンのそれと平行にしてからグラスをかち合わせた。普通は、自分のグラスの上縁を相手のそれの中ほどのところでかち合わせ、訪問客に対する敬意を表す。このときは違った。「傲慢でもなければ卑屈でもなく、冷淡でもなければ熱心でもない」姿勢をそれによって示したと著者は記す。

 なぜ、そこまで神経質にならねばならなかったのか。

 毛沢東に、周恩来が「右傾」しているという非難をさせないためである。

 毛は、ニクソン招待を世界戦略というより、むしろ内政面の権力闘争の一環ととらえたようである。

 毛は完全対決となれば、林彪はおそらくソ連と組んで自分に立ち向かってくると思い、機先を制する形で米国との関係正常化を図ろうとしたのだろう。しかし、林彪の反撃は予想外に早かった。ただ、毛沢東暗殺計画は露見し、林彪は自滅した。この林彪事件(注1)によって毛沢東の威信は深く傷ついた。文革のおぞましい結末と毛沢東の敗北をそれは物語っていた。それを隠し、外に関心を向けさせるため、毛は外交的な賭けに出た。それがニクソン招待だった、と著者は説く。

 賭けは見事に当たった。当たりすぎたほどだった。世界中が周恩来と周恩来外交をたたえた。毛は激しい嫉妬に駆られた。

 周がキッシンジャーと「米中軍事協力問題に関する情報交換」で合意したことが、1973年末の党政治局拡大会議で、周恩来外交は「右傾投降主義」であると批判された。毛沢東の脚本どおりの展開だった。

 高氏に会い、主に中米、日中関係を中心に聞いた。

──あのとき、周恩来がいなかったら、米中正常化はなかったですか。

「そうは思わない。最後は毛が決めていたのだから」

──米中正常化はどちらが先に考えたのですか。毛か周か?

「どちらかを言うのは難しい。周は、毛がこう決めてほしいというふうに情報を上げる。もちろん、決めるのはつねに毛だ」

──(ニクソン訪中後の)田中訪中は、中国側からすれば何が最大の問題だったのですか。

「もっとも大きな問題は、田中角栄が戦争責任をどのように認めるかだった。なかでも、日本の対中賠償が大きな関心事だった。しかし、賠償に関しては日中間で何一つ、覚書をつくらなかった。中国は、賠償請求を放棄する代わり、他の面ではすべて日本に譲歩させようという方針をとった」

「訪中前、田中は北京市民の各家庭にテレビを1台ずつ贈ってくれる、といううわさが北京では流れた。単なるうわさだが、日本の対中経済協力に対するある種の期待があったと思う」

──周恩来に次いで胡耀邦(注2)が日中提携路線を追求したが、1987年1月、失脚しました。

「彼の素人臭さ、新世代意識、毛沢東批判、政治改革志向などを陳雲(注3)、彭真(注4)、王震(注5)らが嫌い、胡耀邦打倒に動いた。なかでも、(1984年訪中した)中曽根康弘首相を北京の自宅に招いたことが、その後、一国の外交を私したとの批判を浴びた」

──中曽根首相が1985年に靖国神社に参拝したことが、胡耀邦打倒に弾みをつけたと聞いたが、どうだったのですか。

「靖国神社参拝は最大の理由ではなかった。むしろ、1984年、日本から3千人の青年を招待したことが大風呂敷だと叩かれた。当時、党中央文献研究室の上司が、そのことで胡耀邦を批判したのを覚えている」

──1992年の天皇訪中は、どんな受け止め方だったのですか。

「中国政府は、公式には天皇を尊重する態度をとってきたし、いまもそうだ。しかし、党の内部の会議などでは、天皇は日本の戦犯の象徴として批判の対象となる。いまの天皇陛下は戦争とは直接の関係はないが、天皇というこの二文字を見ただけで、一般国民は戦犯のイメージを抱く」

 米中と違って日中では、上層部の権力闘争は起きなかった。しかし、胡耀邦対日外交は泥まみれになった。日本が対中外交を進める際、つねに考えておかなければならない要素である。

 本書はすでに香港で発売されたが、大陸では発禁である。

──党宣伝部はどこが気に入らないのでしょう。

「毛沢東が、がんに侵された周恩来の手術を認めず、それもあって結局、周恩来が死去したというところとか、周恩来とトウ小平の関係もそれほど麗しいものではなかったところとか……」

 周恩来は皇帝に対する宦官のような存在でしかなかったのか……この本を読んで周恩来嫌いになる人もいるかもしれない。しかし、私の周恩来に対する畏敬の念はいまも変わらない。

 政治家は、結局は公にどこまで尽くすかによって歴史的評価を下すべきである。

 周恩来は、米中、日中のより安定した関係をつくる上で大きな役割を果たした。イデオロギーと宮廷政治の渦巻くなか、それを成し遂げた。中国のその後の改革と開放の下地をつくった。周恩来がいなければトウ小平もまたいなかっただろう。

 高氏は言った。

「周恩来の悲劇は、彼自身は建設者であり、人間的にも素晴らしかったが、社会システムが彼を潰したことにあった。いったい、革命とは何か、革命家とは何か、人々は深刻に考えざるを得ない。この点が中国の党・政府がなお直面する根本の問題なのだろう」


注1 1971年9月、副主席だった林彪が権力掌握を目指して起こしたクーデター未遂事件。

注2 元党主席・総書記。1915-89年。

注3 元中央顧問委員会主任。1905-95年。

注4 元全国人民代表大会常務委員会委員長。1902-97年。

注5 元国家副主席。1908-93年。